郵便局へ。外国人はつらいよ
1月20日(月)166/730日目
朝一のバスに乗ってダルエスサラームからモロゴロのムジへ。
村に帰る前にここに寄らなければいけない理由があった。
1週間ほど前、郵便局の人から電話がかかってきて
日本からの荷物が首都→街→村のうちの「街」の郵便局で止まっており
記載されているものと中身が一致しないから村に送ることができないと
なんだか嘘みたいなほんとのよくわからないことを言われた
よって自らその街の郵便局に行かなければいけなかった。
本人が確認すればすぐ受け取れるだろうと思っていたが、
実際はそんなに甘くなかった
郵便局に着いて「荷物を受け取りに来た」というと
「・・・kana saito?」と聞かれた!
そうそう!
これは話が早いかと思われたが
役所を二つ回って、二人の職員も立会いのもと中身を確認しなくてはいけないらしい。
変なものは入っていないはずなんだけどな・・・
お忙しい中2人の職員が郵便局に来てくれた
そして箱を開けた瞬間に日本食日本食日本食・・・明らか私のやん(笑)
「私のもので間違いないです」で終わるかと思ったら
まさかの尋問が始まった
これはなに?私たちの知らないものだぞ!
英語ではなんていうんだ?
スワヒリ語で説明しろ!
えぇーーーーーなんか危険人物扱いされてるのこれ?
説明しようにも、ふりかけは英語でもFurikakeだし
煎餅はマンダージでもケーキでもないスワヒリ語圏には無い食べ物だし
そもそも向こう警戒しまくってて聞いてくれないし信じてくれそうに無い
だんだん一個一個説明してるのもアホらしくなってきた・・・
このような事態になってしまったのも
中身の記載漏れや個数が明確でなかったからだそうです。
送ってくれた方は箱を閉じ郵便局に持ってってから書いたそうなので、明確に書けなかったんだとか。
まぁまさか開けて中身見られるとは思ってなかったからねぇ・・・
すぐ受け取れると思ったのに結局この郵便局と、役所をまわるのに2、3時間かかった。勘弁してくれ。
やっとの思いで全ての確認が終わり
関税や手数料を払い私は解放された
最後まで面倒見てくれた郵便局の人には感謝しつつも
絶対二度と来たくないこんな所と思った・・・
ホテルにしばらくこもりたかったが今日はまだ終わらない
ケータイ番号の登録の期限が今日なのだ。
荷物をおいてすぐケータイショップに向かう。
なぜそんな期限ギリギリになったのか
とお叱りの言葉をいただく前に、自分の責任ではないということをぜひ主張したい。
NIDAから番号が送られたのがつい数日前、そして村のショップはインターネットが問題ありとかで機械が動かず。
全システムが常に、正常に、うごくとは限らないこの国のお約束
期限までに、確実に、全てが整う方がおめでたいといえよう
いろんな思いを巡らせながらお店に行くと、(予想はしていたが)これでもかと人が並んでる。
そしてなかなか進まない。気が狂いそう。。
期限まで残り数時間だぞ?何やってんだと思いながらも自分もその一員なんだよなと。
やはりここでもネットがスムーズに動かないらしい
列に並んで待っている間、もちろん好奇な目で見られた
1時間半ほど待ってやっと自分の番。店員同士の「おい、チナが来たぞ」というひそひそ声の会話も聞こえた。ハイハイ
幸いなことに自分の手続きは5分もたたずして完了した。
やったーーーー解放されたーーーー
これで私の今日の戦いは終わった
*----------*---------*
今日1日だけでこの国怖いな、ちょっとやだなと思ってしまった。
被害者ヅラするようだが、それでも精神的につらい状況が続いてしまった
自分が好きで外国に来たとはいえ
外国で暮らす、外国人として暮らすことがどんなに大変なことなのか痛感した
今や世界中でSNSが発達し、海外旅行も簡単になった時代、世界は狭くなり国同士が近づいたかのように思っていた。
しかし実際はまだまだ
自分の国に少しでも肌の色、髪の色、目の色、顔の作りなど
容姿が異なる人がいたら「抵抗」を感じ、「警戒」もするのが普通かもしれない
日本にも海外からの旅行者に限らず、「住んで」「働く」外国人が増えた
果たして彼らにどれだけのサポートがあるのだろうか
通っていた学校や近所にいた外国から来た友達、市役所で見かけた外国人一家など、一人一人の顔が思い出される。
*---------*--------*
出国する前、「現地の人に寄り添った活動をしたい」と志していた自分だが
気づけば「こちら側に寄り添ってほしい」と望む自分がいた
実際に自分で体験してみないとわからないことって、山ほどあるなぁ。
同期隊員と首都観光
1月19日(日)165/730日目
土曜日、新隊員のカリブ会をしてきました
私たちも5ヶ月前にこうやってやってもらったなー早いなぁ・・・・
さて日曜日、今日はモザンビークから同期隊員が遊びに来てくれたので、1日首都観光
さて朝10時頃集合して、そこから全てUberタクシーで移動しました
お金はかかるけど安全第一。
まずはティンガティンガ村。
アフリカ伝統の絵。描き手によってタッチは異なりますが、どれも個性的で、自分のお気に入りを1枚見つけてみたり、このタッチ好きだなぁと、同じ系統のものを辿ったりすると楽しいです
壁にかけるような絵だけでなく、コップやお皿などの食器、ポストカードやしおり、クリスマスの時期だったからかオーナメントなどもありました。
同期隊員がお土産に1個買オーナメントを買っていたので
私も購入。かさばらないし部屋にあってもいいなあと。
そのままローカルフードを食べようということで、語学学校に行っていた時期によく食べていたお店へ。
(ティンガティンガ村と語学学校は近い。)
おばちゃん、お姉さんたちが作るごはん。
モザンビークにもシマと呼ばれる、同じ食べ物があると聞いていたので話題にすると
「うん、でも手で食べるのは初めてだよ」
え、手以外でどうやって食べるの?!
モザンビークではフォークとナイフだそうです。衝撃。
というわけで今回は問題無用で手で召し上がっていただきました。
ローカルを楽しんでいただいた次に、マサキにあるSHOPPERSへ。最近できたとか・・・?
で、品揃えがいいと聞き私も行くのは初めてでしたが
写真はありませんが
ひろーーーーいいいいきれいいいいいいいいいいいい
日本だったらよくある普通のスーパーかもしれませんが
村から出てきた小娘目線で言わせてもらうと夢の世界
お皿一つとっても汚れてない、土ほこりかぶってない、など・・・
なんでもある・・・きれい・・・首都サイコー・・・
明らかに同期隊員よりも楽しんでいたタンザニア隊員でした
さて買い物を終えたらおやつを。
ダルエスサラーム1美味しいと有名なケーキ屋さん「ep'dor」へ
同期隊員は訓練所の時から甘いものに目がないということで有名だったので・・・
というのを口実に、完全に自分が行きたいから爆
でも実際にケーキ屋さんで食べるのは初めてでした
タンザニアでもおしゃれなカフェは(都心部には)ありますのでぜひ。
さてさてゆっくりお茶した後はまたお散歩へ
次の目的地はslip way
海辺にあってこれまたきれいなところ。お土産品が豊富で買い物、ごはんも楽しめます。
ちょっと歩くたびに「ラフィキ!」「カリブ!」とお店の中に連れて行かれ
同じよーな小物と服を何度も見せられて・・・
途中から目がチカチカしてくる。
それもそのはず、このエリアに小さいがお店が70店舗もあった。(番号書いてある)
そりゃ回ってて疲れるわ。ただ、これだけ数あればきっと一目惚れするあなただけのとっておきの商品がある、はず。
さてさてさて
海の景色を堪能したあとは(夕暮れ時とか最高です)(私たちはちょっと早かった)
「タンザニア料理」をご希望された同期隊員を夕食に連れて行ったのは「skewers」というお店。
ダル滞在時に同期隊員たちと1回来たことがある。サラダバーがあって、メニューも豊富だ。
ただしお酒は置いていない。ジューズやらノンアルカクテルの種類が多い。珍しい。
宗教などの配慮もあるのかもしれない。
1日だけだったが、ゆっくりいろんな話をすることができた。
訓練所時代が懐かしいね〜から、今の活動の様子と、帰国してからのことにも話は広がった。
当然のごとくお互い活動、生活全般で楽しこともあれば苦労すること悩むことストレス抱えることもあるよね〜と。
でもそんなマイナスなことばかりではなくて
同期隊員が話す中で1番心に残ったのは「自分の今の仕事が好き」と言っていたこと
臨床検査技師という職種で派遣されている彼
日本にいる時も
この2年間の活動でも
そして帰国してからも
職場も環境もそこにいる人たちも違うけれど
彼自身が持っている資格、職種を好きでずっと続けたいと思っていることに
すごいなぁと・・・
私はまだ、この先生という仕事が好きがどうかわからない
だからモヤモヤすることもあるんだろうなと思う
改めて自分がどこで誰のために何をしたいのか、何を通して社会貢献したいのか
ポレポレ考えていきたいと思った
そしてその何かは、やっぱり自分が心のそこから好き!って思えるものがいいなぁと
というより、好きってものを仕事にできたらほんと最高だよなぁ
自分の好き、これに人生注ぎたい
ってのはいつどこでわかるんだろうか。
同期隊員に改めて感謝です
やっぱり一人旅いいなあー私もしたいなー(白目)
今回は首都観光のみのご紹介でしたが
もっともっと面白いとこたくさんありますよ
皆様カリブタンザニア!!!!!
自分の人生を変えてくれた人
1月18日(土)164/730日目
「みなさんは、自分の人生を変えてくれた憧れの人っていますか?」
snsで流れてきた元ジャマイカ隊員のブログ。
いるいる、います。
良いタイミングなので書き出してみる。(自己都合)
*-----------*------------*
私には人生を変えてくれた、というか、今の自分の人生のきっかけを与えてくれた人がいる。昔も今も憧れの人。
私が中学に上がるとき、その人は青年海外協力隊として南アフリカに飛び立った。
なんでそんな遠くに行くんだ。2年間も。と、当時の私にとっては衝撃だったが
彼のおかげで、写真やテレビで見るような現場に行って、自ら働きかけることができることを知った。
遠く離れた違う国で、関わることがないと思っていた場所とも繋がることができる
JICAの事業を知った私は、将来私も彼と同じように"途上国"の人たちのために動きたいと、熱く思った。
そこから海外に関するニュースや出来事にはアンテナを高く張るようになり
将来の夢は「国際協力に携わること」と言っていた
今思えば漠然とした夢だ。
「先進国と途上国との格差をなくしたい」なども考えていた。何も知らない中学生。
「誰のために」「(海外の)どこで」「何をして」
の具体的な目的が私には考えれていなかった。
そして国際協力に関わる道を探し続けて、大学4年間が終わろうとしていた
思っていたのとなんだか違う・・・あれ、そもそも私何を探していたんだっけ
大学で何を学びたかったんだっけ
たしかに毎日楽しかった。素敵な出会いもたくさんあった
自らいろんな場所に飛び出してもみた
けど何を身につけた?
そう考え始めると、せっかく入った大学の4年間がすべて崩れてしまいそうだった
「就活」と呼ばれる時期も始まった。教員採用試験に向けて周りも本格的に動き始めた。私は両方を取ろうとした。
二兎を追う者は一兎をも得ず。という言葉も頭をよぎりつつも。
結局よぎってよぎって、消えなかったから、新しい道を作った
「原点に戻ろう」
私がこれまでで一番心動かされたのは、
中学で彼がアフリカに飛び立ったあのJICA青年海外協力隊だった
もちろん最初はただの憧れだったのかもしれない。
でも、やっぱり彼の生き方そのものもかっこよくて
いわゆるヒーローってやつか
彼みたいになりたいと思った。
自分も「いつか」と思っていたけど
それが「今」でもいいんじゃないか
実際に見てみないと、やってみないとわからない
大学3年の3月
知り合いで再び協力隊に参加する人と話す中で
新卒でも参加できることを知り
所属していた団体の後輩と話している中で背中を押されて
そこから私はすぐに動いた。
JICA四国デスクの人と連絡を取り
資料をもらって
応募ページにアクセスして・・・
普段いろんなことを後回しにしがちな私がすぐ動いてるすげぇー
と、我ながら驚いてしまっていたり。それだけ本気だったんだと思う
教職も残っていたし
就活も続けた
が、心の中では協力隊が最優先だった。
なので教育実習も、また企業での面接でも協力隊の参加が一番であることを素直に話した。(それでもちゃんと話を聞いて採用としてくれた企業には心から感謝している。)
そして無事今に至る。
現状を言えば、「右も左もわからない新卒のペーペーが来るんじゃなかった」と、何百回何万回も思った。思っている。
実際私みたいな奴が参加していることを良く思わない人もいるであろう。当然だ
訓練所でもタンザニアに来てからも痛い目見てる
それはすべて自分の責任だ。無力な自分の。
国際協力ってなんなんだろう。教育ってなんなんだろう。先生ってなんだろう
日本って。タンザニアって。
毎日ぐるぐる頭も心もこんがらがりそう。というかなにかが破裂しそうなくらい考え事は止まらない。
「2年間で何か変えれると思っちゃいけない」
わかっているけど、人間て欲あるものやん。やっぱりちょっとでも役に立てれたらなーなんて思うやん。
わータンザニア来てなにしてるんだろう
理想とは懸け離れた自分がみじめで恥ずかしい
そんな現状です。
「なんで私ここに来たんだっけ」
とふと思ったその言葉の次に出てくるのは、ヒーローである彼の姿だ
そうだ、あの人がいたから今の私がある。
いつも忘れちゃうけど、私がこの場所にくるのに10年かかったんだ。
逆に10年経ってその夢が叶うってすごくない?
なんてことを一人で頭の中ぐるぐるさせてる。
弱音なんて吐いてる暇ない。ウジウジしてる暇なんてない
あれだけ行きたがっていた場所に来たんだ。
感謝以外の何物でもない。
訓練所入所前に行われた技術補完研修で、
偶然にもその私の憧れの人が残した言葉が紹介された。
「希望は捨てず期待はせず、理想は高く目標は低く、一人で突っ走らず一人でめげず、押し付け過ぎず受け入れ過ぎず、怒らず焦らず諦めず、子どものために先生と楽しむ」
本当の意味の「良い加減」が必要なのだろう、何事も。
こうやって今でも彼には言葉を通して助けてもらっています
赴任してもう半年近く経つ。早い。
残り1年半もきっとあっという間だろう。
どの方向に走り出すか、正直まだわからない。
この先もきっといろんな感情に振り回されると思う
それがきっと自分で、常に冷静、は、おそらく無理
肩に力が入りっぱなしで思いつめがち
肝心なところで臆病だしめんどくさがりでもある
でも持ち前の意地と諦めの悪さと「とにかくたくさん笑え」精神が
役に立つこともあるかもしれない。
ありのままの自分とありのままのタンザニアをお届けし続けようと思う
「自分の人生を変えてくれた憧れの人」
強いて言えば出会うたびにその一人一人が自分の人生を作ってくれているわけで
常に変化をもたらしてくれている、とも言えるのだが
そして紹介したい人はまだまだいるわけだが
第一弾てことにしておこうか
今日はここまで
自分の人生を変えてくれた人
1月18日(土)164/730日目
「みなさんは、自分の人生を変えてくれた憧れの人っていますか?」
snsで流れてきた元ジャマイカ隊員のブログ。
いるいる、います。
良いタイミングなので書き出してみる。(自己都合)
*-----------*------------*
私には人生を変えてくれた、というか、今の自分の人生のきっかけを与えてくれた人がいる。昔も今も憧れの人。
私が中学に上がるとき、その人は青年海外協力隊として南アフリカに飛び立った。
なんでそんな遠くに行くんだ。2年間も。と、当時の私にとっては衝撃だったが
彼のおかげで、写真やテレビで見るような現場に行って、自ら働きかけることができることを知った。
遠く離れた違う国で、関わることがないと思っていた場所とも繋がることができる
JICAの事業を知った私は、将来私も彼と同じように"途上国"の人たちのために動きたいと、熱く思った。
そこから海外に関するニュースや出来事にはアンテナを高く張るようになり
将来の夢は「国際協力に携わること」と言っていた
今思えば漠然とした夢だ。
「先進国と途上国との格差をなくしたい」なども考えていた。何も知らない中学生。
「誰のために」「(海外の)どこで」「何をして」
の具体的な目的が私には考えれていなかった。
そして国際協力に関わる道を探し続けて、大学4年間が終わろうとしていた
思っていたのとなんだか違う・・・あれ、そもそも私何を探していたんだっけ
大学で何を学びたかったんだっけ
たしかに毎日楽しかった。素敵な出会いもたくさんあった
自らいろんな場所に飛び出してもみた
けど何を身につけた?
そう考え始めると、せっかく入った大学の4年間がすべて崩れてしまいそうだった
「就活」と呼ばれる時期も始まった。教員採用試験に向けて周りも本格的に動き始めた。私は両方を取ろうとした。
二兎を追う者は一兎をも得ず。という言葉も頭をよぎりつつも。
結局よぎってよぎって、消えなかったから、新しい道を作った
「原点に戻ろう」
私がこれまでで一番心動かされたのは、
中学で彼がアフリカに飛び立ったあのJICA青年海外協力隊だった
もちろん最初はただの憧れだったのかもしれない。
でも、やっぱり彼の生き方そのものもかっこよくて
いわゆるヒーローってやつか
彼みたいになりたいと思った。
自分も「いつか」と思っていたけど
それが「今」でもいいんじゃないか
実際に見てみないと、やってみないとわからない
大学3年の3月
知り合いで再び協力隊に参加する人と話す中で
新卒でも参加できることを知り
所属していた団体の後輩と話している中で背中を押されて
そこから私はすぐに動いた。
JICA四国デスクの人と連絡を取り
資料をもらって
応募ページにアクセスして・・・
普段いろんなことを後回しにしがちな私がすぐ動いてるすげぇー
と、我ながら驚いてしまっていたり。それだけ本気だったんだと思う
教職も残っていたし
就活も続けた
が、心の中では協力隊が最優先だった。
なので教育実習も、また企業での面接でも協力隊の参加が一番であることを素直に話した。(それでもちゃんと話を聞いて採用としてくれた企業には心から感謝している。)
そして無事今に至る。
現状を言えば、「右も左もわからない新卒のペーペーが来るんじゃなかった」と、何百回何万回も思った。思っている。
実際私みたいな奴が参加していることを良く思わない人もいるであろう。当然だ
訓練所でもタンザニアに来てからも痛い目見てる
それはすべて自分の責任だ。無力な自分の。
国際協力ってなんなんだろう。教育ってなんなんだろう。先生ってなんだろう
日本って。タンザニアって。
毎日ぐるぐる頭も心もこんがらがりそう。というかなにかが破裂しそうなくらい考え事は止まらない。
「2年間で何か変えれると思っちゃいけない」
わかっているけど、人間て欲あるものやん。やっぱりちょっとでも役に立てれたらなーなんて思うやん。
わータンザニア来てなにしてるんだろう
理想とは懸け離れた自分がみじめで恥ずかしい
そんな現状です。
「なんで私ここに来たんだっけ」
とふと思ったその言葉の次に出てくるのは、ヒーローである彼の姿だ
そうだ、あの人がいたから今の私がある。
いつも忘れちゃうけど、私がこの場所にくるのに10年かかったんだ。
逆に10年経ってその夢が叶うってすごくない?
なんてことを一人で頭の中ぐるぐるさせてる。
弱音なんて吐いてる暇ない。ウジウジしてる暇なんてない
あれだけ行きたがっていた場所に来たんだ。
感謝以外の何物でもない。
訓練所入所前に行われた技術補完研修で、
偶然にもその私の憧れの人が残した言葉が紹介された。
「希望は捨てず期待はせず、理想は高く目標は低く、一人で突っ走らず一人でめげず、押し付け過ぎず受け入れ過ぎず、怒らず焦らず諦めず、子どものために先生と楽しむ」
本当の意味の「良い加減」が必要なのだろう、何事も。
こうやって今でも彼には言葉を通して助けてもらっています
赴任してもう半年近く経つ。早い。
残り1年半もきっとあっという間だろう。
どの方向に走り出すか、正直まだわからない。
この先もきっといろんな感情に振り回されると思う
それがきっと自分で、常に冷静、は、おそらく無理
肩に力が入りっぱなしで思いつめがち
肝心なところで臆病だしめんどくさがりでもある
でも持ち前の意地と諦めの悪さと「とにかくたくさん笑え」精神が
役に立つこともあるかもしれない。
ありのままの自分とありのままのタンザニアをお届けし続けようと思う
「自分の人生を変えてくれた憧れの人」
強いて言えば出会うたびにその一人一人が自分の人生を作ってくれているわけで
常に変化をもたらしてくれている、とも言えるのだが
そして紹介したい人はまだまだいるわけだが
第一弾てことにしておこうか
今日はここまで
思ったことひたすらつらつら
1月11日(土)157/730日目(2回目の投稿)
まだ始まって1週間ですが、昨年の様子と合わせて思ったことをどんどん書いていこうと思います。自分の中のメモとしても。
小学校教員の方々にとっては把握していて当然のことなのかもしれないけど
3年生をみていて感じることは
「黒板に書いてある通りノートに書く」ことがまず難しい。
集中力も関係あるかもしれないが、
彼らの目は黒板とノートを行ったり来たり・・・
というよりかはずっと黒板とにらめっこ。
[生徒の目線]→黒板、のーt黒板、黒板、黒板のーt黒板、ノート黒板
といった感じで、なかなかペンが動いていかない。
おろおろしている間に時間は経つ
サポートに入れるときは一緒に声に出したり、書く場所を指で示したりして進めさせることはできるが、一人二人の話ではないのでどうしても限界がある。
その光景に慣れていたので5年生の子たちがノートの上にどんどんペンを走らせる様子を見たときには感動してしまった。
小学校で子どもの発達段階を目の当たりにするとはこういうことなんだと実感。
作業一つ一つが当たり前にできると思っちゃいけない。
「黒板通りに書くのが難しい」といっても、自分でアレンジして書くことはもっと難しい。
着任したてのとき、生徒の質問に対して「なんでもいいよ」とか「書いても書かなくても」「任せるよ」と返すと困ってしまっていた。
「あ、これでは生徒が混乱しちゃう・・・」
板書の大切さを痛感した瞬間。
そしてこちらでは先生が示す書き方が"絶対"なのだ
今週の授業でも先生が説明を終え帰った後、書いている生徒のノートをのぞいてみた。
やはり一人一人書き方は違う。生徒によっては、きれいとは言えないけどわたし的に「うん、まぁええか」くらいに思えた場合は特に指導しなかった
しかしオフィスに持ってこられたノートを見てM先生は
「まったくこの子達は」・・・と幻滅していた
ちょっと別件を挟むが
正直こっちの先生の苦手なところは、生徒が間違えた答えをしたときに「は?」みたいな声出して、「どうしてわからないの!」と怒るところ。
もちろん人にもよるし
時と場合で程度も変わるんだけど
「どうしてわからないの」って
個人的な目線で言わせて貰えば「いやそりゃわからんだろ」って思ってる
先ほど投稿した英語の1対1テストなんかでもそう。
先生が一方的にこう言うのよ!って教えて、いきなり本番だったし、先生の説明だけじゃ何をするのか理解していない子もいた
もちろん先生がどんな説明をしていたのか、スワヒリ語すべて明確に理解しているわけではない。
でも、口頭だけじゃ伝わらないこともあるんじゃないかなぁと思っている。
全体で声出してみるとか、お隣さんと反復練習とか、例示すとか
やりようはいろいろあるんじゃないかなぁ
と、外側から見ていると思う。
というわけで先生の思っていた通り?言っていた通り?に書けていなかった3年の子達は次の時間に厳しくご指導されてました。
実際自分が教壇立ったときそれらを考慮した上で授業ができるかはわからない
だからこそこの感じたこと一つ一つ忘れないようにしよう。と思うわけです。
と、いろいろ言いながらも、金曜日いきなり授業を任され、
黒板にノートの絵を描いたり
実際子どものノート使って良い例を示したりと
自分なりにやってみましたが
やはり全員理解させることは難しいのでした。
ノートの書き方指導は一つの大きな取り組み課題になるかもしれません
失敗は繰り返してなんぼじゃい
新学期開始week1
1月11日(土)協力隊生活157/730日目
本格的な活動が再開して1週間。
新年、新学期始まる前日、Facebookにて強気でぶつかってくぜ的な発言をしたにも関わらず
初日から結構メンタルやられるできごとばかりでした・・・
ですがなんとか立て直して、今一度いろんな学年、先生、教科の授業を見てみた。
まずはその一部をご紹介。
▶︎3年算数
一応担当のクラス。
だが、教えるメインティーチャーは昨年からお世話になっているM先生。私は補佐的な?
今日から大きな数の勉強。
教科書にはひたすら数が並んでいて声に出して読んでみようとあるけど、実際1人1冊教科書はない。
どうやって教えるんだろうと思っていたら、
先生が私に「手伝って」と・・・
黒板に数字を書き出した。999から1100まで
書くんかーーーーい
そして一つ一つ声に出して読ませる
全部読むんかーーーーい
そしてさらにこれ全部ノートに書くよう生徒に指示
個人的な率直な感想:ま じ か
※結局、火水木金とこの作業が繰り返されました
▶︎3年英語
M先生が教える他の授業にもついていくことに。。(いつも連れてかれる、本望だが)
今日は朝の挨拶。黒板に書いて口で説明して(実際声に出して反復練習したらいいのになと思いながら)
そして「さぁ今からやってみるわよ!」
と生徒全員外に出した。
先生が生徒一人一人とテストみたいにやり取りして、合格したら教室の中に入る
なるほど。おもしろい形。
写真だと説教感あるけどそんなこと、ない、、デス。。(ちょっとは怒ってた)
▶︎5年社会
これまたM先生。違う学年ではどんな授業をするのか
当然のことながら、授業は比較的やりやすそうである。
なぜなら↓
・3年生と違うとこその1
先生と生徒のやりとりがスムーズ。
声の大きさ、態度、答えの内容、受け答えの仕方を学年とともに自然と学んでいるのだろう
そして先生の説明が一通り終わるとあとは板書の時間。ここでもやはり教科書が一人1冊無いので書く量が尋常じゃない
・3年生と違うとこその2
個人作業時の集中力。ときどき私の方をチラチラ見るが静かにできている。
とはいえ状況的に、黒板のスペースの関係でどんどん消されてしまうから必死で書かないと間に合わない。自然と私語もなくなる。なるほどね。最後に出される練習問題の答えも全て板書からだもんね。
教科書がないと黒板に書かれていることがすべて。
▶︎6年生理科
S先生の授業。
いきなり教室から生徒たちがバァーーーっとでできて、何事かと思ったら「葉っぱをもってこい」と。植物の勉強か。
森の中、木々に囲まれた学校、葉っぱはいくらでもある。
一人一枚持ってきて、それを見ながら先生の説明を聞く。
一人一冊教科書はないが、こうやって実物を見ながら勉強できるってワクワクするんじゃないかな。
新学期
1月6日(月)協力隊生活152/730日目
新学期が始まった。
今日の学校
▶ピカピカの1年生
(入学式は無し。親と一緒に来て登録的な)
▶久々の学校。1年のスタートはもちろん掃除から
▶意外と1日目からしっかり授業。前学年の復習から。
▶昨年教えていたクラスの子達が教室に呼んでくれた。愛しい。4年生でも頑張るんだよ
わたしがちょっと退屈そうにしていたとき。
1年生担当の先生が授業の様子を見せてくれた。
彼らにとっては初めての授業。
チェケチェア(=幼稚園クラス)の時から数字とアルファベットを勉強しているのでその復習。1~10とa,e,i,o,uを書けるかテスト。
一人一人地面に書いて、出来たら先生を呼んで見てもらう。
消すのも簡単笑
外ってだけでワクワクするね
たしかに最初から教室の中できちんと座れと言っても難しいか…
面白い工夫
こんな授業してみたい
さて新3年生の教室にて。
机間巡視してたら知ってる顔が!
昨年見ていた生徒で進級できなかった子。
3年生をもう1回。
厳しい現実。
でも周りより年も知識も(当然とはいえ)上ということもあってか、1つ1つ自信をもって行動していた。
私とのやり取りも慣れているので早速助けてくれた。頼もしい。
大丈夫、遅いなんてことはない。
ゆっくり確実にやっていこう。
一緒に頑張ろうね
今日はここまで